「ボイパ」「おっくん」と聞いたら、奥村まさよしのボイスパーカッションを思い出す30、40代は多いのではないだろうか。元RAG FAIRの奥村は2000年ころ、全国の高校生アカペラグループが技術を競うテレビ番組の企画で大活躍。全国にアカペラブームを巻き起こし、その後も人気グループとして活動してきた。そんな奥村が今夏、立憲民主党から国政に挑戦する。
実は奥村は音楽活動と並行して2012年に保育士の資格をとり、実際に現場で働いてきた。シフト組みや採用面接など運営面にも関わっていた奥村は、人手不足による現場の疲弊を嫌というほど味わってきた。一方で、気象予報士としての知識や音楽活動を生かして子どもたちの興味関心を引き出す時間を作り出せる、やりがいも実感した。今は、1歳半の娘の父親でもある。
保育士として、子育て中の親として。保育園の量的拡充だけでなく、「保育の質」への着目を呼び掛けたい、という。
高校生の時に大きな地震を2回も経験。「他人事じゃない」との強い思いから、2004年以降全国の被災地でボランティア活動をしてきた。17歳の時、当時最年少で気象予報士試験に合格した一面もある。多方面で活躍してきた奥村に、これまでの経験と、政治へ挑戦する意気込みを聞いた。
保育現場の人手不足を体験。「観客席で叫んでもどうにもならないなら、自分がマウンドに上がらなきゃ」
——ボイスパーカッショニストの奥村さんが、なぜ政治?と疑問をもつ人も多いだろうと思います。政治に関心を持った理由を教えてください。
大学時代に音楽活動と並行して保育補助のアルバイトをしていたのがきっかけで、2012年に保育士の資格をとりました。その後、横浜市内の保育所でパート保育士として働き始めたんですが、人手不足で現場の疲弊がすごかった。
人手不足の理由は、保育ニーズが増える一方で、保育士の処遇が改善されないこと。こんなに分かりやすい問題なんだから、いつか誰か政治家が解決してくれるだろうと思ってました。それに保育士の窮状は、「保育園落ちた日本死ね」のブログが出てからずいぶん社会的にも認知されるようになってきました。でもいまだに、抜本的な解決はできていない。
野球場に例えるなら、観客席でいくら叫んでもボールには触れない。だったら自分がマウンドに上がらなきゃ、と思ったんです。
——保育現場での経験について、詳しく聞かせてください。奥村さんがいちばん苦労したのはどんなことでしたか?
職員のシフト組みです。保育士1人あたり午前9時から午後6時までの勤務ではとても回しきれなかった。もちろん自分のお子さんがいる保育士さんもいるから、その子が熱を出したら本当にどたばたでした。
保育園って長期休みがないから業務の立て直しが難しいんです。3月31日で最年長の子たちが卒園したら、4月1日に入園する子たちのためにロッカーの名前を貼り替えて、書類を入れ替えて、といった作業を園児が帰った夜8時から始めて、開園の朝7時までに終わらせないといけない。
そんなぎりぎりの状況の中で、より良い保育のために研修に行くなんて、とてもできなかった。発表会の衣装50着を徹夜続きで作ってましたから。園の採用面接もしていたのですが、選考基準はないに等しい。こっちからお願いして入ってもらわないと、保育所がつぶれちゃうような状態でした。
だから僕個人の変化としても、はじめは音楽活動と並行して週1回から始めた保育園での仕事でしたが、次第に「子どもたちを守らなきゃ」って気持ちが強くなっていって。どんどん保育の仕事のウェイトが大きくなっていきました。
本と新聞が大好き、10歳下の妹の世話が当たり前の「ませた子ども」
——日本ではまだまだ、男性保育士は少ないです。大学生の時のアルバイト、その後の資格取得など、周囲の声は気にならなかったのですか?
全く気になりませんでしたよ。僕には2歳差の弟の下に、10個年下の妹がいます。小さい子の面倒をみるのが、当たり前の日常生活でしたから。大阪の下町だからかもしれないけど、妹と一緒に歩いていると近所の大人がよく、「お兄ちゃんえらいなー」って声をかけてくれたのも嬉しかったですし。
——奥村さん自身は、どんなお子さんだったのですか?
小学生のころは身長が低くて、背の順の列で毎年、一番前に並んでました。体格に恵まれなかったし運動神経もそんなに良くなかったので、目立つスポーツをするよりも本や新聞を読んで、世の中のことを知るのが好きでした。ませた子どもだったと思います(笑)
焦ってばかりの毎日から抜け出せた、史上最年少での気象予報士試験合格
——17歳での気象予報士合格は、当時史上最年少ということでテレビや新聞、夕刊紙の報道で注目を浴びました。それまでの性格とは正反対にとても目立ったわけですが、何か10代のころに変化があったのですか?
結果的にかなり目立ってしまいました(笑) でも中学入学から気象予報士試験に出会う高2まで、僕の中では焦ってばかりの日々だったんです。それまでは勉強が好き、かつ得意でしたが、中学に入ったら、一気に授業についていけなくなった。受験勉強して大学に行く積極的な意味が見いだせなかったし、そもそも勉強苦手だし…将来どうすんねん、という焦りがものすごく強くなり、両親にはずいぶんきつく当たってしまいました。
——反抗期ですね。
そうですね。そんな最中に、気象予報士試験が始まるというニュースを新聞で知って。「これだ!!」とひらめいた。僕は身近な天気にすごく興味があって、小学校から中学校の自由研究は全部天気について調べていたくらいでした。これを極めてみよう、と。
気象予報士試験の合格率は4~6%です。この難関をくぐり抜けて、合格できたのは大きな自信になりましたね。気象予報士試験が、焦ってばかりの毎日から抜け出させてくれたといっても過言ではないです。
高校生で2度の大地震。ラジオが知らせる犠牲者数が30分ごとに増えていく中で感じた、「震災は他人事じゃない」
——高校生のころには、半年の間に2回も大きな地震を体験しているのですね。
1994年10月、マグニチュード8.2の北海道東方沖地震は、修学旅行で北海道にいた時に起こりました。それから半年も経たないうちに、阪神・淡路大震災が起こりました。当時は大阪に住んでいたので、余震の怖さが半端なかった。2回目以降は地鳴りからくるから、揺れへの恐怖は2回目、3回目の方が実は大きいんですよね。
当時はよく夜中にラジオを聞いていました。ニュースで伝えられる、亡くなった人の数が30分ごとに増えていくんです。それを聞いてると、ほんとに寝られなかったですよ。震災は他人事とは思えなくなりました。
——奥村さんは2004年の新潟県中越地震をはじめとする様々な震災ボランティアに参加しています。
新潟県中越地震後にはボランティアと並行して、現場のルポを書いていました。その後も2011年の紀伊半島大水害や2012年の茨城県つくば市の竜巻被害、2015年の茨城県常総市での関東・東北豪雨、2016年の北海道豪雨、2018年の北海道胆振東部地震の時も被災地でボランティアをしました。
2011年に東日本大震災が起こった時は、すぐにヒッチハイクで東北に向かって、岩手や宮城の石巻で泥出しや生活支援をしました。宮城県の牡鹿半島での活動にたどり着いたんですが、そこでは震災以前にすでに人口が減り、交通も不便で、若者も少なくて。街を元気にしたいという地元の方たちと協力して、僕が東京のミュージシャンとつないで芸術祭を開催したり、何か手伝いがしたいと牡鹿半島に来た人を案内したり。僕はその土地に詳しいわけではないけど、人と人とを「つなぐ」ことで役に立てることもあるんだと実感しました。
保育は「総合格闘技」。処遇改善には社会の認識も変わるべき
——国政に対して、どんなことを訴えていきたいですか?
まずは保育士の処遇改善です。保育士の賃金を上げ、労働環境を改善し子どもに向き合える労働環境を整えるのは、保育士不足を解消する上で必須です。
賃金を上げるには、保育士の仕事の社会的地位を上げることも必要です。保育士はただ子どもと遊んでいるだけ、っていう認識はまだ根強いと思いますが、そうじゃない。保育は「総合格闘技」ですよ。高いコミュニケーション能力や調整力、複数タスクの同時進行が必要だし、子どもの育ちに関する知識を学んだ、国家資格を持つ専門職です。
子ども1人には親御さんだけでなく祖父母も関わっていて、その背景を理解して子どもとどう接したらいいか、考える。毎日お迎えに来る人と話すのは、毎日三者面談をする先生のようなものなんです。そういうことを、今の政治家の先生たちの多くは知らないんじゃないかな。
——国会には、保育の現場を経験した議員は珍しいですよね。
現場の保育士さんの声って、本当に政治に届きにくい。日々の業務が忙しすぎて、政治に関心をもつ時間もない。だから、僕がハブになって保育士さんたちの声を国会に届けていきたい。関係者と実際に会う意見交換と並行して、Twitterのハッシュタグを使って、保育士の人たちの意見を集めています。
「保育の質」を重視する唯一の政党だから、立憲を選んだ
——記者会見では「保育の質」向上にも言及していました。
いまの子どもたちは毎朝7時半くらいに半分眠りながら保育園に来て、夜8時くらいにうつらうつらしながら帰っていく。1日の大半を保育園で過ごすんです。
日本では保育所の量的拡充にばかり注目が集まりがちだけど、OECD(経済協力開発機構)は何年も前から「保育の質」向上が各国の課題だと指摘しています。保育者1人が担当する子どもの人数や、遊具や園としてのカリキュラムなど、「保育の質」向上と一口にいっても多面的です。ただ、子どもが1日の大半を過ごす保育園での経験をより充実した場にしよう、という意識を現場も、社会全体でも持てるようにしたい。
——立憲民主党で実現したいことは?
安心し、希望が持てる社会基盤づくりです。僕がなぜ保育にここまでこだわるかと言えば、社会経済構造の変化で共働き家庭が専業主婦家庭より多くなった今、保育園は道路や電気と同じ、社会インフラだからです。
僕は今の社会に蔓延する「不安」が大きな課題だと考えています。不安だから貯金は絶対しなきゃいけない、子ども2人目は産みたくない。不安が消費を不活性化させ、社会の活力もなくなっていきます。
実は今日、娘が熱を出してしまったんですが、妻も仕事で大事な打ち合わせがあるからできれば休みたくないと言っていたのに、結局休んでもらう形になってしまった。パートナーの仕事のタイミングが必ず合うわけではない。幅広い保育サービスにすぐにアクセスできないことで、たくさん子どもが欲しいな、とは思わなくなっていきます。
——奥村さんの考えに立憲民主党がマッチしたところが多かった?
「保育の質」にまできちんと踏み込んで、子どもの視点に立った政策を持つのは、日本の政党の中で立憲民主党だけです。保育士等処遇改善法案で、保育士の経験や技能を見える化する制度を取り入れていた。先般の幼児教育無償化法案に反対する時も、認可外も無償化とすることによる保育の質低下に警鐘を鳴らしたりしています。同じ方向を向いて活動できると思ったので、立憲を選びました。
原発ゼロと自然エネルギーの促進にも共感できました。震災後にボランティアをする中で、地元の人たちの生活に及ぼすリスクを考えると、どうしても再稼働したいという政府の立場には疑問しかなかった。それに、自然エネルギーの生産に必要な気象予報の技術はこれからまだまだ伸びる分野です。この分野で僕の専門性を生かしていきたい。
資格マニア?「暮らしの半径5メートル以内を深堀りするんです」
——東日本大震災後にすぐ取ったという防災士を含め、奥村さんはいろいろな資格を持っています。奥村さんにとって政治への挑戦は、どんな意味を持ちますか?
保育士、気象予報士、防災士。僕のことをよく知らない人からは、資格マニアですか?とか、ただの資格コレクターじゃないか、とか言われることもあります(笑) でも僕がしてきたことって、その時々の暮らしの中で興味を持ったことや、置かれた状況から問題関心を持たざるをえなかったことを、突き詰めてきただけなんです。政治もその一つで、身近な問題をどうしても解決したいから、チャレンジしてみたい。
映画監督の宮崎駿さんが「半径3メートル以内に大切なものは全部ある」という名言を残されています。それにならって言えば、僕は半径5メートルくらいのことを、いくつか深堀りしていく。もちろん一つのことを突き詰めて取り組むのは素晴らしいことです。一方でいろんな分野を知っていることで、社会の役に立てることもたくさんあると思うんです。
——たとえばどんなことでしょう?
小学校以降の教育には教科書があるけど、保育園や幼稚園はガイドラインの範囲内で具体的にどんな活動をするかは、保育士の裁量次第なんです。だから僕は園庭がない保育園でも自然に興味が持てるよう、企業と開発した幼児向けアプリで園児と気象予報をしていました。発表会の演目にボイパを入れることもありました。政治活動にも、いくつもの分野を横断した柔軟な発想でのぞみたいです。
——理想とする政治家像は?
現場の問題を、スピード感をもって解決できるようになりたい。だって「保育園落ちた日本死ね」のブログが出てから、もう3年ですよ。まだ保育園に入れてない人がたくさんいる。子どもはどんどん育っていきます。迅速に政治を進めるには、当事者が切迫感のある声を届けるのが重要です。様々な分野の専門家や当事者をたくさん国会に送ることは、その第一歩だと思います。
奥村まさよし MASAYOSHI OKUMURA
1978年大阪府大阪市生まれ、寝屋川市育ち。1999年から2002年まで放送されたフジテレビ系のバラエティー番組「力の限りゴーゴゴー!」の人気企画「ハモネプリーグ」で話題を集め、アカペラボーカルバンド「RAG FAIR」のボーカルパーカッショニストとして大学在学中の2001年にデビュー、武道館でのワンマンライブを成功させ、紅白歌合戦にも出場した。2019年4月に脱退。
大阪教育大学教育学部附属高等学校天王寺校舎卒、筑波大学自然学類卒。2013年、北海道大学高等教育推進機構科学技術コミュニケーター養成コース(CoSTEP)修了。 高校在学中、17歳の当時最年少で気象予報士に合格、史上初の高校生予報士として話題を集める。2017年には横浜国立大学大学院教育学研究科で、園庭がない保育所での気象教育をテーマとして「未就学児童に対する保育所に気象教育を研究し、教育学修士を取得。
保育士・幼稚園教諭(一種)、防災士の資格を持つ。保育士として横浜市の保育園などで計4年間勤務。防災士としては全国各地で講演活動などを行う。 家族は妻と1歳半の娘。